江戸幕府初代将軍 徳川家康



江戸幕府初代将軍 徳川家康
戦国武将 ARMOR SERIES
フィギュア 本格的な造りです!


【ショップの説明抜粋】

徳川家康 1542年〜1616年

江戸幕府・初代将軍。在職1603-1605。三河岡崎城主・松平広忠の長男。幼名竹千代、のち元信、元康、家康と改めた。はじめ今川義元、のち織田信長と結び東海に勢力を拡大、信長とともに甲斐武田氏を滅ぼす。豊臣秀吉の天下統一後はこれに協力、関八州を与えられ、1590年江戸入府。関ヶ原の戦勝を経て1603年征夷大将軍となり、江戸に開幕。将軍職を譲った後も大御所として実権を握り、大坂冬・夏の陣で豊臣氏を滅ぼし、統一を完成した。織田信長と結んで駿河を、豊臣秀吉と和して関東を支配。豊臣氏五大老の筆頭となり、秀吉の死後石田三成を関ヶ原の戦いに破り、慶長八年(一六〇三)征夷大将軍となって江戸に幕府を開いた。秀忠に将軍職を譲ったのち駿府に隠退したが、大坂の陣で豊臣氏を滅ぼし、武家諸法度などを定めて、幕政の基礎を築いた。
江戸幕府初代将軍 徳川家康 Bタイプはこちら
タグ:徳川家康

九州の覇者 島津義久



九州の覇者 島津義久
戦国武将 ARMOR SERIES
フィギュア 本格的な造りです!


【ショップの説明を抜粋】

島津義久 1533年〜1611年

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。薩摩の守護大名・戦国大名。島津氏の第16代当主。3人の弟を使いこなし、九州を制覇した名将である。家系は源頼朝の長庶子ともいわれる忠久を祖とする島津氏。室町幕府の薩摩守護職・大隅守護職・日向守護職。弟義弘と協力して、豊後・大友氏、肥前・龍造寺氏ら有力大名を打ち破り九州を掌中にする。しかし、豊臣秀吉の九州征伐を受け、抗戦するも敵わず降伏し、薩摩・大隅2国と日向の一部を安堵された。関ヶ原の戦いでは、西軍につき敗戦した義弘に代わり上京、家康に謝罪している。古今伝授を受け、教養高い武将でもあった。
九州の覇者 島津義久 Bタイプはこちら
タグ:島津義久

風林火山 甲斐の虎 武田信玄



風林火山 甲斐の虎 武田信玄
戦国武将 ARMOR SERIES
フィギュア 本格的な造りです!


【ショップの説明を抜粋】

武田信玄 1521年〜1573年

戦国時代の武将。名は晴信。信玄は法名。父、信虎を追放して家督を継ぎ、信濃に進出。越後の上杉謙信と川中島で激戦を展開した。1572年、西上の途次、三方ヶ原で徳川家康を破ったが、翌年三河の陣中で病没。父信虎を廃して甲斐(かい)の守護となり、信濃一円を制し、上杉謙信と対立、数度に及び川中島で合戦。のち、京都進出を企てて三方ヶ原で徳川家康を破り、三河に入ったが、陣中で病死。軍略家としてすぐれ、「信玄家法」を制定、鉱山開発・治水にも業績をあげた。信玄堤の名で知られる治水工事など、領国経営にも尽くした。
風林火山 甲斐の虎 武田信玄 Bタイプはこちら
タグ:武田信玄

賤ヶ岳七本槍の一人 加藤清正



賤ヶ岳七本槍の一人 加藤清正
戦国武将 ARMOR SERIES
フィギュア 本格的な造りです!


【ショップの説明を抜粋】

加藤清正 1562年〜1611年

安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。肥後熊本藩初代藩主。豊臣秀吉の家臣として仕え、各地を転戦して武功を発揮。肥後熊本の領主となる。秀吉没後は徳川氏の家臣となり、関ヶ原の戦いで武功を挙げて肥後熊本藩主となった。「賤ヶ岳七本槍」の一人として数えられるが、彼の武功は朝鮮の役におけるものが最も有名である。肥後熊本では現在においても人気が高い。智勇兼備の名将としてだけではなく、築城の名手としても有名である。明治43年に従三位を追贈された。また、朝鮮の役での虎退治の伝説も有名である。なお、手話において加藤姓を表す際は加藤清正の虎退治の古事にちなみ槍を前に突き出すようなジェスチャーを行う。
賤ヶ岳七本槍の一人 加藤清正 Bタイプはこちら
タグ:加藤清正

五大老 槍の又左衛門 前田利家



五大老 槍の又左衛門 前田利家
戦国武将 ARMOR SERIES
フィギュア 本格的な造りです!


【ショップの説明を抜粋】

前田利家 1539年〜1599年

戦国時代、安土桃山時代の武将、大名。加賀藩主前田氏の祖。尾張国海東郡荒子村において、その地を支配していた土豪荒子前田家の当主である前田利昌の四男として生まれる。幼名は犬千代。14歳で織田信長に仕え、元服し前田又左衞門利家と名乗った。青年時代は血気が盛んで槍の又左衞門、槍の又左などの異名をもって呼ばれ、信長の親衛隊的存在である赤母衣衆となり、加増を受けて家臣を抱える。父の利昌が死去し長男である兄・利久が家督を継いでいたが、信長は永禄12年に利家に前田家の家督を継ぐように命じる。利家は信長が推進する統一事業に従い、数々の参戦が確認されているが、母呂衆、馬廻りという役柄から大きな武功を立てる機会が無かったであろうと考えられている。豊臣政権では徳川家康と並ぶ重臣の扱いを受け、秀吉が五大老・五奉行の制度を整えると五大老のNO.2として大納言の官位を持ち、秀吉の実子である豊臣秀頼を後見する立場となった。1598年には家督を長男・利長に譲り隠居する。秀吉の亡き後、法度を破った家康に反発し、諸大名が家康・利家の屋敷に集結する騒ぎとなったが、利家が家康のもとを訪問し和解する。この直後、利家の病状が悪化し、大坂の自邸で程なく病死。家康と唯一互角に渡り合える程の人望と武略を持っていた利家の死去は、豊臣氏滅亡が決定的となる一因ともなった。
五大老 槍の又左衛門 前田利家 Bタイプはこちら
タグ:前田利家

徳川四天王・十六神将の一人 本多忠勝



徳川四天王の一人 本多忠勝
戦国武将 ARMOR SERIES
フィギュア 本格的な造りです!


【ショップの説明を抜粋】

本多忠勝 1548年〜1610年

安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。徳川氏の家臣。上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主。忠勝系本多家宗家初代。松平氏の三河譜代家臣・本多氏の一族で、本多忠高の長男として天文17年、三河国蔵前(現在の愛知県岡崎市)で生まれる。幼い頃から徳川家康に仕え、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いの前哨戦である大高城兵糧入れで初陣する。このとき、同時に元服した。元亀元年(1570年)の姉川の戦いにも参加し、元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いの前哨戦たる一言坂の戦いで殿軍を努め、武田方の小杉左近から「家康に過ぎたるものは二つあり、唐のかしらに本多平八」との狂歌の落書をもって賞賛されたことが有名である。晩年、彼は小刀で持ち物に名前を彫っていた。その時、うっかり手を滑らせ、指に小さな切り傷を負ってしまう。忠勝は「わしの命運もここまでか」と嘆き、実際にその数日後に死去した。これが彼の生涯で唯一の負傷だったと伝わる。
徳川四天王・十六神将の一人 本多忠勝 Bタイプはこちら
タグ:本多忠勝
ひらめきその他の多くの戦国武将は、右上のカテゴリからどうぞ!グッド(上向き矢印)グッド(上向き矢印)グッド(上向き矢印)
戦国武将@甲冑@フィギュア
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。